家族とご飯


買った本を読み終えた。そのなかの一冊、群ようこさんの「たべる生活」で家庭料理に関するデータを集めるために10代から40代の男女に両親の料理で思い出に残っているもの、美味しかったものを聞くお話があった。そこでは「特にない」という答えが若い人から多く、子供の体を考えて料理している親が少なくなっている気がすると書かれていた。なるほどと思いながら、私も母の作ってくれた料理を思い浮かべた・・・



肉じゃが、マカロニサラダ、きんびら、豚汁、、、



好きだった料理を思い出しながら「んーあれも美味しかったし、これも好きだったなー」なんて一人でブツブツつぶやいていたのだが、もっともっと好きな料理があったはずなのに思い出せないことにガッカリして考えるのを止めてしまった。



私の母は6年前に亡くなった。亡くなる前も入退院を繰り返していたので元気にご飯を作ってくれたのはおそらく8年とかそのくらい前だと思うが、忘れたなんて言うと母は怒るだろう。怒ると無視してくるタイプなのでかなり面倒くさい。こうやって書いているが、見えないだけで私の後ろからパソコンの画面を覗いているかもしれない・・・訂正します。面倒くさくはないです。これでオッケーだろう。今日夢に出ないことを祈ります。



そんなこんなで後ろめたさもあり、しばらく母が作ってくれた料理について考えながら生活をする日が続いた。ある日のお昼、冷蔵庫を開けると先日の晩に残った白米が寂しそうにしていた。卵を買った次の日に祖母から卵を2パックも貰ったため父親から卵使用命令が出ていたのでチャーハンでもしようと思い準備を始めた。チャーハンはレシピを見なくても作れる唯一の料理だ。男はチャーハンばっか作るよね!あれは何故?と何かの番組で女性タレントが言っていたが、おそらくフライパンを振る動作がカッコいいと思っているからだろう。なので必要以上にフライパンを振る人間の気持ちが分かる。私もその一人だから。凄いカッコいい!と思ってもらいたくて私はフライパンを振り続けている。今だに披露する場所は来ないのだが準備万端だ。そんなどうでも良いことを考えながらも手は動く。白かったお米はフライパンを振るごとにきれいな黄色になっていき、色味のために入れたミックスベジタブルが良い役割を果たしている。初めて作ったチャーハンのことを思うと、本当に続けていれば何でも上達するもんなんだなと感心した。そういえば人生で初めて作った料理はチャーハンだったかもしれない。たしか、小学5年生とか6年生だったと思う。最初から最後まで一人で作ってみたかったので母には「リビングでゆっくりしといて!母さんのも作るけえ」と言ったものの完成したチャーハンは超薄味で卵も上手く混ざっておらず、まだらでベチャベチャ。こんなチャーハンと言ってよいのか不明な料理を食べてもらうのが申し訳なかったが母は美味しいと食べてくれた。



母がいなくなって料理をすることは何度もあったが、こんな思い出を鮮明に思い出すことは今までなかったのでとても不思議だった。もしかすると、大切な思い出を忘れて落ち込んだ私を食材や調理器具、食器などが慰めてくれたのかもしれない。こんな事あったよ!って優しく思い出話をしてくれた気がして私はとても嬉しかった。彼らはずっと覚えている、だから私は安心して忘れても大丈夫なんだと思った。そして、一人でチャーハンを食べた。美味しいという声が聞こえないのが寂しくて、少し無理して「美味しい」と出した声が部屋に響いてもっと寂しくなった。



その夜、母の料理について話しながら家族3人で夕飯を食べた。各々好きな料理をあげていると「ニラの卵とじ」という料理名があがった。これは名前の通りニラを甘い卵でとじたものだ。味変にお好みソースをかけると美味しいと父親が発見したことで、より一層好きになったメニューのひとつなのだがこの名前を聞いて父がぼそっと「わしの稼ぎが少なかったせいで・・・」と言った。私達にはもう少し豊かな生活をさせてやりたかったらしい。そういえばニラの卵とじがやたら多い月もあったような。でもそんなことどうだって良いと思う。例え質素な夕飯だったとしても家族みんなでご飯が食べられることがどれほど幸せか私は知っているから。そして、質素だなんて1ミリも思ったことはない。毎日毎日私達が飽きないように考えて作ってくれた料理はどれも美味しかったからお金なんか関係ないと私は思う。この家に生まれて本当に良かった。両親には感謝してもしきれない。でも、こんな思いは恥ずかしくて父には伝えられなかった。



あと何回こうやってみんなで食事ができるのだろう。楽しく食事すればするほどこんなことを思う。突然お別れが来ることを私は知っているから怖い。これ以上私から大切な人を奪わないでほしいが神様はそんなことお構いなしだ。素敵な人間は早くにこの世を去る気がするのは私だけだろうか。悪いことをしている人間に整理券の若い番号を配るようなシステムは生まれないのだろうか。そんなことを思う私は悪い人間だろうか。きっと人は死ぬと青空になるのだろう。そう思わないと納得できない。きれいな青を保つために、きれいな人間を奪っていくのだ。果たして私は何色だろう。私はきれいな青空の一部になれるのだろうか。そんなことを思っていると好きだった料理の話は終わっていた。作った料理は綺麗になくなっており弟は「美味しかった」と伝えてくれた。とても優しくて素直な言葉に涙がこぼれたので、それを隠すように食器を流しに持っていった。やっぱり私は悪い人間でいい。汚い青のままでいい。こんな時間が少しでも続くのであれば。そして、みんな汚くあってほしい。